2015年01月18日

【仏】何故パリはペシャワールよりも更に一層衝撃的なのか Tunku Varadarajan | Jan 11, 2015


 西欧的偏見がパリを特別視し、文明社会に住む西欧人の死はその他諸国の蕃人とは比較にならず、マスコミもその偏見に立って報道するから増幅するのは間違いない。だがシャルリー・エブド事件がそれだけニュース・ヴァリューを持つのは何故だろうか(表記)。此れ迄と視角を変えて見てみよう。尚、筆者はスタンフォード大学のフーバー研究所研究員だから、当然西側保守派の見方だ。
《骨子》
1。預言者マホメットをからかった復讐にテロリストがパリにゐる諷刺家たちを大量殺戮した、そしてムスリム報道官の熱心な通常の合唱はこの流血事件がイスラムの現実でない−それは、虐殺の余波の中で何度目か分らない程の詠唱にまかせるとして、平和の宗教だ、ということだ。自分の宗教の名前でパリにゐる諷刺家をテロリストが大量虐殺する、そして普通の自分を毛虫にする西側リベラルの合唱が言う、「待て、イスラムを厳しく裁くな、西側も同様に野蛮たり得るからだ」。宗教裁判、アブグレイブ刑務所、グアンタナモ、無人機やイスラム嫌いへの言及が続く。イスラム主義テロリストに大量殺人は西側の歴史の罪すべてを列挙し、更新する機会を提供する。

2。特に後者の類の聖歌隊員の精力的な実例はハリ・クンツルー、英国ーカシミールの小説家だ。仏雑誌シャルリー・エブド事務所への殺人攻撃の翌日ガーディアン紙に書いて、クンツルーは勿体ぶった長広舌を「意義ある人生を生きるよりしの抽出を選ぶ自己演出する若者」に関して揮った−テロリストの為の洗練された婉曲表現だ。クンツルーは、「野蛮主義について何も聞きたくない」或は「中世的な投げ戻したる聖戦の戯画」を欲さないと宣言し、そして代りに、「フランス国による深刻な抑圧がシャルリー・エブド攻撃の回路を完成させるだろう」と述べる。ナイジェリア系アメリカ人のテユ・コールは、ニューヨーカー誌に書いて、類似の和音を叩く。「フランスは今日悲しみの中にある、そして来る数週間そうだろう。我々はフランスを悼む。そうすべきだ。だが『我々の』側の暴力が衰えず続くことも亦真実だ」。西側とイスラム主義聖戦間の道義的等価が疑問の余地なき真実として読者に提供される。今の左翼について腐敗し弛緩したものがある。それは道徳的に拍手される。それは最早西側文明の保管者たり得ない。

3。シャルリー・エブド攻撃−テロリストが漫画家を殺す−は理性的な人間を傷つけずに誰ひとり残さなかった可能性がある。道徳的意味への攻撃として、議論は分れようが、それはほんの数日前のペシャワールでの学校児童刈り取り*よりも一層大きな衝撃を持った。最後の攻撃で、児童らは自分らに向けられた死を持つ駒だった、パキスタン陸軍との制度的繋がりの故だ。彼らの死は血の凍るものだったが,同時に無作為でもあった。彼らは別の標的、陸軍自身と広義にはパキスタン国家への不運な導管だった。
*16日にペシャワールで起きたタリバンによる学校襲撃で、132人の子どもたちと9人の大人が死んだ事件。

4。パリのシャルリー・エブド事務所で、死者は名指しで選ばれた−そうだ、名前が呼ばれ、そして彼らに答えた者が射殺された。職業追求に余念のなかった行為の咎で明白に殺戮の為に選ばれ、杭を打たれ付け回されていた男たちだ。射殺されたこれら雑誌人の殺人者は印刷作業中だったのは宇宙的な正義だ。だがこの正義が下される前、これら殺人者は自分で西側にメッセージを伝えた。我々、そしてお前たちの中で生れ、お前たちの中で暮らし,混じり合いお前たちの中で溶解する我々のような多くの他の者がお前たちを殺すだろう、お前の言う、考えるそして描き、書くことのためだ。警戒せよ。

5。西側は指揮されない危機に面している。どのようにパリやロンドン、ブリュッセル,アムステルダムやコペンハーゲンのような諸都市は、イラク或はシリアに行ったことがあり、技能と殉教への飢餓を抱えてヨーロッパに戻った今や戦場で鍛えられた聖戦戦士を含む,宗教的に火の点いた「冬眠工作員」による内部からの攻撃から、自分を守るのか。これら社会の政治的礼儀正しさが自身の防衛を不能にして来た。右思考のリベラルは依然仮借ない予防的手段の匂いを嗅ぐ−そしてムスリムへの「反撥」に代えて警告する。

6。併し,そうした反撥への恐怖は必ずしも麻痺へのアリバイたり得ない、そして西側がその諸都市でイスラム主義の癌と戦う方法を見付けるのに時間が掛かれば掛かる程、殆どいない狂犬病の毒から自身を隔離する、西側に住む圧倒的大多数の法律遵守のムスリムにとってそれが増々困難になるだろう。マンハッタン研究所のシティー・ジャーナルに書いて、英国の文化人類学者テオドール・ダーリンプルは、「99人の人格円満な移民を祝賀することよりも1人のテロリストにずっと多くの恐怖がある」と観察する。彼の言う恐怖は単に、受入共同体が自家製テロリストを持つことの恐怖であるのみならず、ムスリム移民が持つ筈の恐怖でもある。テロリストは自分の住む社会を破壊する力の中に恐怖を持つからだし、より良い生活を求め自分の行き暮れたと力西側に逃げて来た数万人のムスリム男女の夢をも一緒にだ。(止め)
***
 名指しで殺されるのとそうでなく訳の分からぬ不条理に殺されるのと何故軽重があるのだろう。名指しで殺すことは名指されぬ者は殺されないということだろう。身に覚えのない者は取りあえず胸を撫で下ろせるではないか。それに対してペシャワール事件はパキスタン陸軍とパキスタン国家とに緩やかな関係を持つとはいえ、自身の罪とは感じない程度のものだろう。それなのに、突然乱入されて身に覚えの無いまま殺される。こちらに納得する方が難しいではないだろうか。

 テロが犯罪行為であり、指弾されて当然の事件だとは思うものの、明かに精神的苦痛を与えるのが目的の諷刺が何処迄許されるのか。野放図な自由はあり得ず、あくまで社会で否認されないものでなければなるまい。ところで、今やシャルリー・エブドは正義の味方のようだが,果たしてそれ程の出版社だったんだろうか。別に聖戦側を弁護するのでなく、フランス社会の中でどう位置づけられていたかを気に掛けたいのだ。勿論、低劣なものも存在し得るのが自由社会ではあるが、同時にそれは社会が淘汰すると期待するからだろう。カストリ雑誌が売れた時代が日本にもあったが、それはやがて三流以下に落ちぶれて行った。未だ生き残っているが、言論の自由で採り上げようと誰も思わない状況でないか。

 春 具(はる・にえ。オランダ・ハーグ在住)は「『NYタイムス』のデヴィッド・ブルックス氏は世の中には言論の自由に値しない言論もあるのだと切り捨てていた」と言い、続けて「そもそも襲撃を受けた『シャルリ・エブド』という雑誌は、癖のあるお笑いで売り上げている雑誌であります。その笑いはどちらかといえば下品に攻撃的なもの」とブルックス氏の意見を紹介し、さらに「そんなメディアはヘイトスピーチを助長するだけで、メディアとしての価値はない、わたしなんかといっしょにしないでほしい」と。「Je suis Charlie わたしはシャルリ」のスローガンに言われる「言論の自由」は、民主主義の根幹をなすとされる。だが、言論の自由とはなにか? だれがなにを言ってもいいことなのか・・・。と常識的な意見を纏めている。

 本論に戻れば、この文章は羊頭狗肉でタイトルの問いに本文が答えていないと思う。だがマスコミで喧伝される考えの本筋の一つかもしれない、と思った。これも一つの材料に「シャルリー・エブド事件」の意義を考えても面白いだろう。言論の自由、テロ殺人というだけで思考停止するよりはずっとマシだろう。

posted by 三間堀 at 15:23| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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