見事に荘厳された国王火葬の儀が終わった。グランド・パレスや式場周辺には沿道で最後の別れを告げるタイ国民が喪服に身を包んで、前日から押しかけ夜は路上に寝てまでして、参列した。1フット(30cm)ずつ進むパレードは2時間かけてゆっくり進んだ。時折映るタイ人の顔は皆涙に濡れていた。火葬場建物のレプリカが主要な地に配られ、献花の列が延々と続き、一般寺院でも簡易式典が催された。さて大王の魂はガルーダに乗って天国にたどり着いただろうか。
豪勢にして静寂に行われたこの葬儀、外国では惨憺の声があがったと聞く。では国内のタイ人は弔意を示しながらも、内心これをどう見たのか。
表記はその一面を伝える。
《骨子》
1。過去数日間バンコクで催された故国王プーミポンのための王室火葬の儀はある面タイ国の政治的一時代の終わりを刻む。我々のタイ人読者及び寄稿家の事実上全員にとって、国王プーミポン生活や仕事のあれこれの面で常数であり続けてきた。ニュー・マンダラはこの瞬間が彼ら及びタイ国にとって意味するものに関して、学者による短い省察の幾つかを共有する積りだ。
2。「2016年10月13日まで全生活を国王プーミポン統治下で過ごしてきたタイ人」と紹介するよう頼んだ一人の研究者は、タイ公共生活における君主制の中心的場所を認知する。しかし、社会が「いつも危機からの救済を大王に甘える」ことを健全かどうか訝る。
3。「故国王プーミポン・アドゥンラヤデートの最近の火葬の儀はタイ国での在位70年の後に彼の達成した道徳的権威、敬愛を宣言した。国王プーミポンが王位に登った時君主制は低調だった。だが彼は多くのタイ人が国家の大黒柱と見なすものへと成るまでその地位を持ち上げてきた。にも関わらず中には、この地位は数十年の長きにわたる国家後援プロパガンダの結果であり、不平な見方がタイ国では合法的に表明され得ないと言う者がいる。
4。国王プーミポンの半神聖な凌駕されない道徳的権威が彼をしてタイ国憲法の規定するものを超えた政治的影響力を揮うのを許した。1973年と1992年の二つの流血の政治的衝突を終わらせる彼の介入はタイ脈絡でのハッキリした文化的カリスマの好例として広く引用されてきた。しかし、彼の人生の最後の十年間、1932年革命以来最も暴力的で乱気流の政治的時期に苦しむ間、国王は脆い健康状態だった。彼の統治の最後の十年を刻んだ政治的暴動の最中の彼の沈黙は様々に解釈され、タイ君主制の将来を巡って懸念を提起した。
5。国王プーミポンの崩御で、タイ国は今海図なき領域に入りつつある。64歳のマハー・ワチラロンコン、国王プーミポンの唯一の息が昨年末王位を継ぎ、直ぐに戴冠すると見込まれる。今彼の父王の火葬が行われたからだ。故国王の高度に敬愛された地位を所与とすれば、新国王が賞賛と崇敬の類似水準を達成するのは極めて挑戦的な課題だろう。
6。
そうであるかもしれないように、タイ国が成熟した民主的社会であるには、タイ人が危機からの自己の救済をいつも大王にしがみ付かないようにすることがより健全だ。彼がどれ程偉大であろうとも一個人に高い望みを託す社会は自ら破壊の種を蒔く。新しい挑戦を平和裡且つ効果的に処理できる民主的制度を強化する努力を払うことが死活的だ。[青字強調は私]
7。「タイ人学者」としてだけ紹介するよう頼んだ別の学者のこのノートは「国王プーミポンのカルト」の連結効果に狼狽を表明する。
8。「国王プーミポンの火葬の儀は多分タイ国の歴史上最も記憶に残る瞬間の一つだ。生活の隅々全部、全専門職業人、全民族からの人々が全員黒服を着用するー傘やその他アクセサリーの下に蹲ってー王室の行進に沿っていようと何日も参列する。万事が完璧に振り付けられている。この全てが敬愛された国王への最後の別れを演劇的で神聖な機会にした。だがこの愛と神聖は自然なものでない。国王プーミポンのカルトは生まれるのに何十年もかかったーそして国がこのカルトを完全にすべく非常に多くを犠牲にせねばならなかった」。
9。2016年10月13日の国王プーミポン逝去以来タイ人にとっては困難な年だった。偉大な国王の喪失を多くが嘆き悲しんだけれども、他の者はシュールレアルな情熱の別の勃興を生き延びる格闘をした。国はショックと拒絶、それから悲哀と怒りを伴う恐ろしいニュースに最初に反応した。モブは暴発して黒服を見つけるのに遅すぎる者を狩り出し、或いは亡き君主に公然とその愛を表明する。少数の不運な個人が打ちのめされたーうろたえた、彼らの大半は適切に行動できない精神障害の人々だ。そうした感情が死滅するにつれて、受容がやって来た。黒を着ない人々は省かれた。「彼らもまた国父を愛したが、正しい喪服を購入する余裕がなかったからだ」。国王の死に同情しないかもしれない者にとって社会が表現の自由を討議できなかったことは悲しくないのか。これは、精々、贋の団結だ。
10。年の間中、プロパガンダがいつも通り続いた。国王の人生の各様相が栄光化され共有された。彼の長い統治は正しく彼がタイ現代史のほぼ全部の主要な出来事に巻き込まれてきたことを意味した。これまた正しく、彼の統治が数百万タイ人の生活向上を齎してきた。だがプロパガンダが激しくなるにつれて、物語がより信じ難くなった。国王プーミポンは彼のみが国を変容させ、アジアの先頭に運んだ半神として描かれた。ほかの誰一人としてその信用をとったり、或いは共有できなかった。幾つかの物語は明確に偽物だが、人々は喜んで著者を許した。彼らが読者の心に喜びを齎したからだ。白鳥が敬意を払うために来たり雲が彼の画像になった。プーミポンは、多くが主張した、ニルヴァーナに達した。これらの物語は時に軍政の情報作戦課により作られたが、その一部はプーミポンに役務を申し出た本当に信じた個人により書かれた。
11。驚いたことに、多くの批判的精神を持ち、良い教育を受けた若者がプーミポンの釈明家になるのを目撃してきた。彼らは現代の自由民主主義的価値観に十分曝されたタイ人のより若い世代だ。その一部は世界であり得る最良の教育を受けてきた。彼らは西洋で暮らし働いたことがある。私は彼らと無数の時間数雨を使ってタイ国の将来を議論した。多くが我々の国に蔓延する社会経済的不平等性と軍隊の介入問題を批判できた。それでも彼らは豪勢な葬儀を弁護し西洋の批判家に対しプーミポンの遺産を称揚した。どれほど多くのタイ人がこの偉大な人物と国への貢献とを愛したか強調するが、彼らは専制的な不敬罪法、プーミポンへの愛を叩き込むために生じる機械化、そして故国王のより暗い様相を見逃した。
12。斯様に国王プーミポンへの愛は絶対的だ。タイ人は奇跡的な課業を充足したがどんな正常人も誤る偉大な人物としてプーミポンを祝うことができない。贋のニュース、嘘、間違い、それに暴力の全部がその目的達成のために正当化され、それが大量の王党派自動人形を生む。タイ人は偉大さの物語で恒常的に矮小化されてきて、弱く価値なき我々は彼の慈悲と恵沢なかりせば決して何事も達成できないと思い知らされてきた。だが我々は2017年10月26日の後、どこへ向かっているんだろう。火葬の儀は最良の超王統主義だ。文字通り世界の隅々のタイ人数百万人が力を合わせてプーミポンの遺産を記念した。散文と詩、写真、絵画それに歌が国民の愛する父の思い出にと数千人のタイ人の手により美しく書き上げられた。だが月でさえ暗い側面がある。プーミポンが我々の父ならば、その時、葬儀が近づいた時ドイツから飛んで戻っただけでーしかも、それぞれ固有の問題を抱えた自分の子供と一緒に二人の側室を連れた年上の兄弟よりも一層の問題をタイ人は探す必要がない。
13。王党派自動人形が単純に幻覚から覚め正常化するだろうか。私はそうでないと推測する。超王統主義で長く恩恵を受けてきたエリート・ネットワークはそのカルトを国家を操縦し続けるのに多分利用しようと努めるだろう。そうなら、酷く自身の正当性を築きあげねばならない新国王ワチラロンコーンは付きまとう彼の父親の成功とどのように融和するのだろうか。70年経って、王党派の月は最終的に欠け始めている」。(止め)